恒例の

今年を振り返る日記を書く。
しかし憂鬱だ。思い出したくない。振り返りたくない。
前だけを見ていたいとか言い換えてみたらなんかカッコいい気もするけど、まぁ私の場合前も見てないんだけどね。
とりあえずゴールを目指してるという点では前向きかもしれんが、要するに客観的に見れば全力で後ろ向きだからね。
はぁ…。
今年かぁ…今年、は、なんか、自分的には、色々、本当に、駄目な年だった気がする……。
なんか、なんだか、疲れた気がする。
うん、今、なうの話じゃなくて、一年を振り返っての感想ね。
正直、もういいやーって思うこともなくもない。
なんか見えない力に着実に道を固められたような気がしなくもない。
そんで、「そっち行きたいんだろ?ホラ行けよ。行ってみろよ。どうせ覚悟もないくせに」と言われてる気がする。
その通りです。
足場を崩して他に道をなくしてくれたら行くのに。
まだ他に道があって、足場があって、誰もそっちへ行けとは言わないから、私はここにいる。
だけど、もう行けよって言われてる気がする。
神様とか、そういうのに。
そんな、一年だった。
まぁ抽象的な話は置いといて、頭切り替えて具体的に振り返っていきますかね!


一月。
もう一年の始まりのこの月は風邪をひくことになっているという位置づけでいいんじゃなかろうか。
あと何故かスケジュール帳の11日に赤丸がついてて、なんだろう?と思ったけど一瞬で思い出した。鏡開きですね。
来年も大鍋いっぱいお汁粉を作る用意は既に出来ている!(キリッ
ていうかぶっちゃけまだ年も明けてないのに餅買いすぎた。
まぁそれは置いといて、今年の一月の話に戻すか。
まおゆう全部一気に読破してますね。丁度アニメ化したからね。
馬鹿じゃないのか。どうして分割して読まないのか。
確か眼精疲労が凄い大変なことになったと記憶しております。
しかしこれが私である。何度でも繰り返す自信がある。怖いわぁ。
あ、あと下の妹と縁切りました。
これで事件以来縁が切れた妹に引き続き、元々邪険にしていた母、そして去年の秋に追い出した父に続いて、家族と呼べる人全員と疎遠になりました。
日常的に気軽に話す相手がいなくなって、甥っ子と遊べなくなったのは寂しいなぁと今では思うけど、家族自体はウザくてストレスになってしょーがなかったので、結局はまぁなるようになったっつーかやっぱしょーがないよなーって。
下の妹は姪っ子を産んでから、正確には結婚して家を出てから、なんか日増しにウザい…いや、うーん、正確な言い方をするなら、私の嫌いな感じになっていってたし。
多分そっちが元々の性格だったんだろうけど、家だと自己主張の激しい姉二人がいるから一歩下がってたんだろうなぁと思う。
しかし一歩下がらない妹はウザイ以外の何者でもないので、正直全くお付き合いしたくないタイプ。
子供だって血が繋がってる限りやっぱいつかはウザいと思うようになってた気もするし。
他人の子が一番かわいい。
というわけで、何故か長くなったけど一月はこんな感じ。
次、二月。
去年から通ってた歯の治療がようやく終わってますね。
神経取ったんだけど、未だにちょっと若干の後悔と違和感が…。
やっぱ歯は大切にしなきゃだね!
そして節分にテンション上がってますね。豆好きですからね。
あとまたなんかラノベシリーズ物一気読みとかしてますね。馬鹿ですね。
で、三月。
迫り来る確定申告期限に慌しく駆け込んだ記憶と記録しかありません。
他は多分いつも通り。
四月。
友人と遊びに行った翌日、父方の祖父が亡くなったという連絡を父から受けました。
んで急遽愛媛へ。
通夜と葬儀には母や妹達も来ていて、今まで会ったこともないような親族が多数集結して「まぁお孫さんなの?今まで知らなかったわー。結婚は?」という言葉攻めを受けたり若干居心地の悪い思いをしたりで、なんだかんだと精神がガリガリ削られ、結局葬儀後の諸々の手続きとかも手伝うために数日は愛媛に滞在してたんだけど、「かわいい親戚のけいちゃん」の顔が出来なくなってきていたので急いでおうちに帰りました。
あ、そういや愛媛凄い寒かった。春に行ったことないから知らなかったよー。
あと、気付いたら二階の住人がいなくなってた。今もいません。しかし時々何故か物音がして少し怖いですが多分気のせいだと思っています。
おうちに帰ってからは精神をガリガリ削った影響でほぼずっと寝込んでました。
そしてそのまま五月のGW突入。
GWと言えばイベント!
なのに寝込み続けた私はついに最終日に奮起してイベント行きました。
イベントに行けなくて枕を濡らすなんて嫌だ!私は行くのだ!!!
というわけで、なけなしのHPを使ってイベント行って、そしてその後も引き続き寝込みました。
で、ある程度回復してきた頃、祖父の四十九日だったのでまた愛媛へ。
別に遠方だし孫だし行かなくても良い感じだったんだけど、私が行きたかったので。
祖父がどうこうっていうより、残った人が気になって。
特に母方の祖母は葬儀で行った折には会えなかったので(母は自分の親族に祖父が死んだことを連絡してなかったので葬儀には強制不参加)、ちょっと心配して渋い顔をする父を誤魔化してなんとか会いに行ったんだけど、あぁこの人母の母なんだなって思ってちょっと心配して損した気分になった。
いや、損はしてないけど、そこまで心配しなくても存外タフっぽいということが分かった、かな?
なんか見た目儚げだけど絶対落ちない最後の一枚の葉っぱとか、そんな感じ。
まーでもやっぱ心配はするけど、そこまでする必要ないかなって認識を改めた。
いや、嫌いになったとかじゃ全然なくて、冷静に脳内で把握している祖母の性格を軌道修正しただけです。
あ、あと、父方の祖母ががんで余命いくばくもないということが発覚しました。
祖父が死んで一週間と少し経った頃、体調が良くなくて病院行って分かったらしいです。
もう四十九日の時には入院してて、元気もなくてろくにまともな食事もとれない状態で、私は、顔を見せに行くことしか出来ませんでした。
何をしたら良いのか、何が出来るのか、何も分からなくて。
従姉妹の子供達と一緒に行った時には少し元気な顔をしていたけど、私一人じゃどうしていいか分からなくて、やっぱ子供の力って偉大だなって思った。
今思えば、それが最後に会った時だったんだなぁ。
そういや祖父と最後に顔を会わせたのは、去年のお祭りの時でした。
帰り際、言い辛そうに迷って、それでも意を決して伝えようとした言葉に祖母と叔父夫婦が物凄い勢いで止めに入って「そんなこと言わなくていいの!けいちゃんに言ってどうするの!」と祖父を諌めていたのですが、残念ながら祖父の言葉は訛りが強くて当の私には全く聞き取れず、口を噤む叔父夫婦を宥めすかして無理矢理聞き出したところ、もう何年も(正確には十年以上)挨拶にも来ないうちの母に対する文句だったらしく。
祖父が、ずっとうちの母を気にしてたことは知ってた。
母は父方の祖母が大嫌いで、それで一時期自分の実家にすら寄り付かなくなってて、ようやく今では年に一度自分の祖母の所には行くようになったけど、それでもどれだけ私が「せめて愛媛行くついでに挨拶くらいはしとけ」と行っても言い逃ればかりして絶対に父方の家には寄り付かなかった。
祖父が、母のことを気にしてたことを知ってた。
懐古、心配、苛立ち、嫌悪、…祖父が何を思っていたのかは私には分からないけど、多分、要するに、気がかりだったんだと思う。
母も、祖父のことは「嫌いじゃない」と言っていた。
だから、何度も会いに行くように言った。
出来ることなら会わせてあげたかった。
死ぬ前に、せめて一度でもと、祖父の望んだとおりに。
だけど叶わなかった。
悔しくて、祖父の祭壇の前で母を詰った。
最後に会った祖父が、私に対して不機嫌そうな顔をしていたとかそんなことはどうでもいい。
ただ、私は、最後に会った時に祖父が望んでいたことを、結局叶えてあげられなかった。
最後の祖父を思い出すと、それだけがただ悲しい。
あと、そういや、祖父の通夜で祖母に挨拶したら、「どちら様でしたっけ?」と言われたことも衝撃的だった。
多分、祖父が亡くなったショックと若干のボケでそういう台詞が出てきたんだろうけど、いつか言われるかもと思ってたけど、実際言われると想像よりも遥かに衝撃だった。
まぁいつもと違って割とフォーマル寄りの落ち着いた装いをしてたからかもだけど、半年前に会ったばかりだよ!
そして本格的にボケてしまっていたと専らの評判だった祖父は最後まで私の名前を忘れることも間違えることもしなかったから、余計に。
仕方ないかな、とは思うけど。
逆にそのことで、最後まで祖父が私の事を覚えていてくれたことが、本当に凄いことだと分かって涙が出るほど嬉しく思えた。
で、愛媛から帰って来てまた少し寝込みました。
六月。
前半は五月に引き続き寝込み、若干の余裕を取り戻したところで後半からはいつもの如く夏コミに向けて資金稼ぎのバイト。
しかし一人面倒な同僚に散々頭が痛くなる思いをしました。
そしてそこへ来て六月下旬に事故に遭いました。
まぁ全然大したことなかったんだけど、ちょっと車とぶつかって、転んで、打ち所が悪くてしばらく動けないでいたら周りの人に警察と救急車呼ばれちゃって、うっかり大事に…。
生まれて初めて乗った救急車は、大層居心地が悪かったです。
何しろ私、全然ピンピンしてたからね…。
もっと救急車が必要な場面がいくつもあった気がするのに、こんなしばらく座ってたら普通に落ち着くし放っておけば治る打撲程度で運ばれるとかどうしたら…っていうかなんかすいません。みたいな感じで。
転んだときに自転車にお腹をぶつけてしまったので、腹筋がほぼない私はモロに内臓に衝撃くらってちょっと動けなくなってただけなんだよー。ホントだよー。
って、いくら私が主張しても、車と自転車がぶつかって自転車側が腹抱えてうずくまってたらそりゃ周りもどうしようなんとかしなきゃってなるよな、とか冷静に思ったりしつつ、やっぱり救急車はやりすぎだったんじゃ…と思う。
でもお陰で良い経験をさせて貰いました。
多分自分じゃ呼ばないからな、救急車。
本当にどこをどうひっくり返しても軽傷な私に対して、真剣に救急活動を行ってくださった方々には頭が下がる思いです。
うちの家族だったら適当にうっちゃるとこだよ!
とか思ってたら、救急隊員の方に半ば無理矢理連絡を入れさせられた実家から何故か両親が病院まで駆けつけてくれて、本気でビックリした。
いや、確か休日で、両親とももうお酒飲んじゃってて、怪我自体は全然大したことないけど救急車呼ばれちゃって病院行くことになったから、帰りの車出せるようなら出して欲しかったんだけど無理ならいいやーって言って電話切ったので、まさかタクシー使ってまで来るとは。
本気で「何で来たの?」って問い詰めたもん。
そしたら、父が「GWに愛媛行ったら(自分とこの)祖母の余命が残り三ヶ月と言われた」ということを漏らし、母が「(自分とこの)祖母が先日転んで入院した」ということを漏らし、ついでに両親揃って「姪っ子が先日熱湯被って入院した」ということを漏らし、要するに我が家の周りでは今立て続けに色々降りかかって来てるから私の事故もその一環と思われたらしい。
そして自分で言った通り本当に大したことない風の私を病院で見て「こういう連絡ホント勘弁して」という言葉だけを残してその後は特に体調を聞かれた覚えはないので、概ね平常運転に戻ったのだろうと思う。
あ、お金の話はされたししたな。
しばらくはその関係で警察行ったり病院行ったり保険会社や加害者の方と連絡取ったりで一人慌しくしてたんだけど(勿論両親はほぼノータッチだったので)、まぁつつがなくなんとかなりました。
加害者の人がうちまで来て謝罪したいって言ったのには少し困ったけどねー。
私、住民票の住所に住んでないけど、それをおおっぴらにはしてないから。
そして実家はおもくそ居心地悪いから。
結局来るという日のその時間帯に合わせて実家に居て、玄関先でお帰り頂きました。
ついでにその日に母に病院連れてって貰えるようにお願いしたので、母も居て対外的にはバッチリだったと思います。
その後は一人で独りのおうちに帰りました。
ふぃー。
その話をずっと書こう書こうと思ってるうちに、夏になったんだよね。
これが初夏頃言っていた平和脅かし要因その2の実態でした。
あとハッキリ書いてないのは…その4と5か。
その4は、父に、7月で今の家の契約更新月なんだけど、父的には今の家の大家…というより仲介の不動産会社が凄く気に食わないらしくて、ついでに言えば私一人には広すぎるし家賃ももっと安く出来るんじゃね?、ってことで、違う物件に引っ越さないかと打診されてました。
で、いくつか候補を見たり、自分で探したりもしたんだけど、如何せん両親が最初にこの家用に買った家具が大きすぎて、普通の一人暮らしの家にはなかなか収まらない上に、この辺は下手に最近建てた物件とかだと家賃が一気に跳ね上がるので、父の出した条件は今のとこより家賃が安くなるならどこでもいいってことだったんだけど、なかなか自分的条件をクリアする物件がなくて、結局その話は流れて引き続き元の家に住んでます。
まぁ父もどうしてもってわけじゃなくてなんとなく引っ越してみない?みたいなノリで言ったと思うので、問題なし。
ただ、時期が事故前後というか、ぶっちゃけ確か事故って両親が病院来た時に私が元気なのを確認するや否やいきなり言われて、しかも更新月は来月だから今月中に答えを出せとか言われ、事故の事後処理もバイトもあるのに…!みたいになってました。
で、その5はその数日後、いつもの如く精神科に行ったら「ちょっとAQってテストやってみない?」と血液検査的なノリで言われたのがきっかけですかね。
えと、AQっていうのは、自閉症スペクトラム指数と言って、健常者と自閉症者は明確に区分け出来るものでなく間が存在しその連続性を概念化したものとかなんちゃらかんちゃらでまぁ私も詳しくは分からないんですが、要するにこのテストの値が高い人が自閉症ってことらしい。
で、先生に健常者はこの位の値で、この辺はボーダーラインってのをあらかじめ聞いてたんだけど、やってみたら私、まさにボーダーライン付近で。
え?何、私、自閉症だったの?え、自閉症って確か障害者の枠に入ってたよね?私、障害者だったの?いや今まで全然普通の人と一緒に普通に育ってきましたが。
ていうかそもそもこの診断を勧められること自体、つまりはその可能性があるっていう風に見えたってことで、…え?
と言う感じで、もやもやしたものを抱えて、ラスト一週間色んな出来事があってやることもあって脳内大混乱状態に陥りつつ六月は慌しく終わっていきました。
ちなみに、翌月精神科行ったら、「まぁちょっとそういう傾向があるってくらいで深くは気にしなくていいのよ〜」みたいな感じに言われ、もやもやはアッサリほとんど片付きました。
うん、でもやっぱり健常者とは違うってことなんだよなぁ…。と未だに少しもやもやする気がしないでもない。
んで七月。
もやもやが片付く前に、今度は父方の祖母が亡くなりました。
まぁ余命聞いてたし、夏までだって思ってたけどね!
でも、だからこそ、八月はほとんどずっと愛媛に居る計画を立てていて、秋を迎えられるかどうか怪しい祖母のお見舞いに少しでも行くつもりだった。
それが、思ってたより早かったなって。
父方の親族一同、立て続けの不幸に、なんだか皆妙に手馴れつつも呆然となっているようなやりきれないような感じでした。
まぁ祖母の場合、それまでずっと入院してて大変だったというのがあるんだけど。
あと祖母たっての希望により、入院の事実は本当にごくごく身内にしか知らされておらず、それこそ祖母と血の繋がりのない祖父方の親戚には寝耳に水みたいな感じだったようです。
まぁ私も一ヶ月以上知らされなかったしな。
うちの場合は単に父がそういうこと言わない性格なだけで祖母が口止めしたわけではないんですが。
だってたった一人の腹を痛めて産んだ息子の子供ですよ私。
まぁそんなことを胸張って言ったって、例え血の繋がりはなくても家族には勝てないと分かってるし元より勝負するつもりも毛頭ないしていうか勝ったら駄目だとも思う。
祖母の葬儀で、祖母とずっと一緒に暮らしてきた叔父家族を見て、祖母が私達直系の孫なんかより叔父家族のことをずっとずっと大切に思ってくれていたら良いと心から思った。
祖母の心の中は祖母にしか分からないし、もう死んでしまった人からは何も聞けないので、ただそうあったならいいと祈るだけですが。
亡くなった祖母はまるで別人のように面変わりしていて、どうしてもつい数ヶ月前に会ったばかりのはずの記憶の中の祖母とは結び付けられませんでした。
だから、そんな私より、最期までずっと側に居た家族を想っていて。
というのも、祖母は昔から分かりやすくうちの父のことが大好きだったので…孫には特に分け隔てなかったような気はするんですが。
だから、うちの父を大好きなのは仕方ないとしても、孫は私らより自分の家族の方を優先して欲しいなと思うわけなのです。
エゴですが。それとも上位者のつもり?わあウザイな私。
それでも、祖母が、家族を想っていたことを祈ってる。
杞憂なら、私の考えすぎなら、別に全然構わない。
だけど、あんなに側に居て支えていた叔父家族より、こんな淡白な私達のことを想っていたんじゃ、叔父家族が報われないよ。
少しでも、報われていて。
幸せであったらいいと、幸せが降って来たらいいと、心から想う。
想った、そんな七月上旬。
その後の後半はかろうじて頑張って生きていたようです。
ていうか葬儀に集まった人数も祖父の時より少なくて、今年に入って二回目だしで、そんなに精神をガリガリ削られることもなかったので、そこまで気落ちせず多分割と普通にしてましたね。
あ、そういや歯の詰め物が取れて歯医者に行った。
割とサクッと何とかして貰えるもんなんだと知った。
これは忘れないように豆知識的な感じで記録に残しておかねば。メモメモ。
で、八月。
一日、母に用事があって実家に行ったら運悪く母不在で妹達が居て、大層居心地悪い思いをして月の頭にいきなり精神をガリガリ削られてますね。
そして寝込んでますね。
しかしまぁ、祖父の葬儀程削られたわけではなかったので、コミケまでには復活しました。
コミケ
今年は暑くてホント死ぬかと思った。
で、コミケ終わった後は速攻で愛媛へ。
お盆期間ギリギリセーフ?と思ったら、なんかうちの田舎の方では完全にアウトでしたすいません。
まぁでも祖父の初盆には間に合いませんでしたが、とりあえずご先祖様のお墓回りをしてとりあえずつつがなくお盆終了。
と思ったら、叔父の家の犬に噛まれるという大失態をかまして、なんか結局その後八月いっぱい左手ロクに動かせない状態でした…orz
ちなみに噛まれたのは左手と左足。
左足はホントに軽傷だったんだけど、左手がちょっと自分的には大変というか面倒なことに…。
あ、この時生まれて初めて車椅子に乗ったんですが(いきなりの出来事で意識が朦朧として自分で歩けなかったため)、大層快適でした。
祖母の四十九日は八月の終わりも終わりだったので、お盆から四十九日までの間はのんびり過ごそうかなぁと思ってはいたのですが、意図せずのんびり怪我の療養をする羽目になってしまいました。
何度も病院に連れてってもらったり、気遣ってもらったりで申し訳なかった…。
痛いのも不自由なのも自業自得だから仕方ないと思えるけどさ。
申し訳ないのは反省しないとね。
もう噛まれないように気をつける!
気をつけつつ、犬を愛でる!
…だって犬好きなんだもの。
むふーん。
そういや、あれから左手の小指の調子ですが、動かすのには何の支障もなくなりましたが、まだ痛痺れてる感じが残ってます。
神経ちょっと傷つけちゃったんじゃないかね。
放っとけば治ると医者も言ってたし多分そうだろうと自分でも思うし治らなくても不自由しない程度のことなので、なんかもうあんまり気にしてません。
たまに痛みとか痺れが酷い時なんかは揉んだりしてるけど。
寒いと血流が滞るのか痛痺れた感じが強くなるので、気休め程度に。
まぁ強くなるって言っても、本当にもうほとんど気にならないくらいですが。
それよかどんな服を着ようが見えるこの左手の傷跡について未だに誰にも突っ込まれない事の方が不安を感じる…。
ち、違うよ!左腕のやつはまぁアレだけども、これは犬に噛まれただけなんだよ!!なんてことない笑い話になるような傷跡なんだよ!って突っ込んでくれないと言い訳も出来ないよ!
気付かれてないか、左腕の傷跡と一緒くたに触れちゃいけないものとして扱われているか、どっちだろう。
あ、気にされてないという可能性もあるのか。
うん、それがいいな。
あの、触れてくれて全然良いんで…。
内心で腫れ物扱いされるのだけは本気で勘弁して頂きたい。
あと、私も内心で「これが愛しのたろうちゃんに付けられた傷跡だったら良かったのに…」とかちょっと病んだ思考をするのを止めて頂きたい。
頂きたいというか、止めろ、自分。
怖いから。
それだけ愛が深いということなのです。
うん、言い訳にもなってないですね。
まぁいいや。
次、九月ー。
は、ずっと体調崩して寝込んでました。
八月は最終日まで愛媛に居たんですが、九月に家帰って早々寝込みました。
で、気付けば一ヶ月丸々寝込んでて、なんでこんなに調子が悪いんだろう…今年はホント寝込んでばっかで駄目な年だなぁ…と思ったものですが、こうして一年を振り返ってみると、どう考えてもストレスないしは精神的疲労、もしくはそういったものを未消化のまま放置して空元気を振り絞って外に出てた結果だよ、と自己突っ込みを入れたくなりますね。
そりゃ疲れるわ。
ここまででいつもの一年を振り返る日記の何倍の文字数と時間費やしてんだよと自分で思います。
いい加減寝たいです。(只今午前三時前)
あと少し、頑張って振り返りますよー!
十月。
前半は引き続き寝込んでました。
半ばにはなんとかありったけの元気を振り絞って友人の結婚式に行きましたが、お式自体はとても楽しんで参加出来たのですが、やっぱり凄く疲れました。
まぁでも数日寝込んで回復する程度でしたが。
一週間後には普通にイベント行ったし。
で、十一月。
例年の如く冬コミに向けての資金稼ぎの短期バイトを始めました。
が、頭がスカスカな派遣社員所長によりまともな人員が集まらず、たった一人の同部署所属要因がとんだ給料泥棒だったため、予定よりもかなり体力並びに精神をガリガリ削られつつ頑張ってお仕事しました。
んで十二月。
ようやく所属部署の仕事が一段落し、さて次はいつもの部署のお手伝いに入るぞーってところで、ついに寝込みました。
もうホント、スケジュール帳見ても、自分でも白い目で見たくなるくらい遅刻と欠勤ばかりで、ああ、もう十二月に入った時点で疲れて要休養状態になってたんだな…と思いました。
ちなみに精神科には今月一で通ってるんですが、十一月に行った時はまだなんとかやれていて、十二月は半ばに行った時は「仕事を続けるだけの体力が足りなくなってスタミナ切れ状態」というようなことを言われました。
が、精神科に行って先生のお言葉を賜るまでの十二月前半は本当に自分の体たらくが情けなくて自分でも自分が信じられないくてなんか無駄にへこんだり憤ったり悔しい気持ちになったり精神衛生上大変よろしくない状況でした。
疲れてるんだよって、仕方ないって、そういう感じに言って貰えて、ようやく少し肩の力が抜けて精神的負担が減って、あわせて遅刻と欠勤がグッと減った…というか欠勤が一回あっただけで後はちゃんと行ってますね。
どんだけ精神的負担がかかってたんだよっていう。
でもやっぱり疲れていたのは疲れていたということで、仕事期間終えてからは冬コミ前日まで寝込んでました。
ていうか多分風邪ひいた。かも?弱り目に祟り目、みたいな。
でも、やっぱり、体調不良でコミケに行けないなんて有り得ない!
というわけでありったけの元気を振り絞って冬コミへ…!
そして三日とも無事生還して今日があるわけです。
そういや紅白に某陛下(笑)が出られるということで、不安と心配と「おいN○Kなんてことを…!」みたいな気持ちと居た堪れないオタク心を抱えてそっとそこらへんだけ見てみたんですが、私的には色んな意味でセーフだったんじゃないかとホッと胸を撫で下ろしたんですが世間の目的にはどうなんでしょう。
一期の本当に最初の頃のライブを思い出すと、嘘みたいな成長というか進化というか、うん、まぁ、とりあえず物凄い勢いで進んでるよね。方向はともかく。
ていうかいつの間にやら普通に歌ったり顔出すようになって陛下呼びが定着してて若干引いたのももう大分昔の話になるのか…。
某氏が大舞台に立つようになっても、私は相も変わらず海の近く(※イベントに行く際、家族に行き先を聞かれた時の私的隠語)に足を運んでいます。
同人時代のCDとか超高値で取引されてて笑っちゃうよね。
私はクロセカしか持ってないけど。
いずれ私が大量に持っている同人CDや同人本が超高値で取引されることがあるのかしらムフフ…とか思ったりもするけど、なんとなくそうなっても多分私は売らないような気がしてる。
だって好きだから買ったんだもん。
や、中には買って聞いてみて「これはあんまり好みじゃなかったなぁ…」ってのもあって、それはいつかそれなりのお値段がつく頃合を見計らって売ろうと思っていたりもするけど、まぁないよね。
ていうか中古同人の取引相場とか常にチェックしてるわけじゃないし。
時々古いので欲しいものがある時に探したりとか、暇なときにそういうお店に寄って見たりとかする程度だからなぁ…。
時代の流れに疎いのです。
あ、さすがに本はほぼ捨ててます。
でもこれを作った労力とお金と情熱を思うと、毎回捨てる際に手を合わせずにはいられない…。
あとCDも手焼きだったら捨てる…。
しかし本は大概買う前に中身パラ見するし、CDは前もってアップされた視聴曲を聴いたもの以外買わないので、まず手放す候補に挙がるものがほとんどないっていう…そして溜まっていく同人誌と同人CD。
本望です。
ああ幸せだなぁって思う。
大分自分終わってるなとも思う。
うむ。
まぁ捨てられないのは元々の性分だからしょうがない。しょーがない。
年明けて体調が回復したらまず大掃除をしないとな…(埃が溜まった部屋を横目で見つつ)
まぁぶっちゃけもう年はとっくに明けてるんですけどね!
とりあえず私の中でこの日記を書き終わって寝るまでが大晦日、みたいな意識が。
起きたらお餅食べようー。うはうは。
本当に、振り返ってみれば、酷い一年だったような、これを酷いと言ってしまう自分が情けないのか、ちょっと悩んでしまうくらい色々書きましたが、ようやくそれも終わって新しい一年ですね。
多分そろそろ母方の祖母が…あっいえなんでもないです。
うん、新しい一年を清清しく迎えたいと思います。
とはいえ喪中だからえーと、おめでとうございますは駄目なんだっけか?
とりあえず年賀状には寒中見舞いを返す予定なのでまったり出来て楽だなーと思っている。
あ、年賀メールは…来ないことを祈ろう。
まぁ信仰心もクソもないから別におめでとうって言ったら駄目な理由がいまいち分からないけども。
おめでとうって言われても別に普通に祝えるし。
それよか誕生日におめでとうって言われるほうがどんだけ苦痛かっていう話だよ。
あ、今から憂鬱になってきた。考えるのよそう。
まぁとにかく、新年はめでたいということで。
お餅も食べるし、お節もお赤飯も食べるよ!
書いてたらお腹が減ってきた気がする。
寝るか。
そして起きたら真っ先にお餅を焼こう…。
うん、しみじみ思うけど、新しい年って素敵な響きだねぇ。
というわけで、一応大晦日の日記という体なので、それでは皆様、よいお年を!
来年はしばらく寝込む予定ですのであしからず(笑)